帰宅後シャワーで汗を流し、昨日からいじくっていたスピーカーを鳴らしたかったので4枚ほどCDを用意した。塩ビ管のものだが管の中にもうひとつ気室を設け第一気室のには金属のダクトを設置し低域の広がりを狙った。エージングはこれからだが、なかなかの好結果が得られた。特にギターの音源の再生はこれで必要且つ十分なスペックだ。さて、用意したCDだが十数年前に友達から頂いた物を聴いた。演奏はアサド兄弟によるもので、以前は専門誌に良く取り上げられていた。兄弟、親子、夫婦で演奏したデュオは呼吸も合っていて息づかいさえ感じられる物である。ピアノなら一人で弾ききってしまう物をギターは演奏の制約から二人以上で弾かざるを得ないがソロとは違った良さも否定は出来ないし、二重奏用に作曲されたものをピアノ一台で弾いてしまうのは味気ない。収められている曲はD.スカルラッティノのソナタ、ラモーのクラブサンの為の作品、クープランの作品、バッハのプレリュードとフーガなどであるが、兄弟の息の合った演奏は今日のような体のコンディションの時は耳に心地よい。
夕飯を食べてからニュース番組を見ているとロンドンオリンピックが近いことが報道されていた。最近気になっているのだが選手達の中には異口同音に「勇気と感動を与えられるように・・・。」と言うのですね。違和感を感じることがしばしばある。人のために演技をすることが前提になっているように思うがアスリート達が自己を研鑽し自分のために苦しいトレーニングを続けるのであって、その結果として記録が付いてくるのだと思う。また、我々参観者にとっては「勇気」「感動」はあくまでも内発的なものであってアスリート達から「感動を与えられる」といった筋合いのものではない。感動は我々個人の主観的なものであって一律に演技者から与えられ押しつけられるものではない。全てではないが、安易だとも受け取られるような選手のコメントを聞いているとオリンピックへの興味も半減してしまう。
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