2013年11月29日金曜日

ギターの貸し出し

 前回のコンサートの後、会場に見えた方からギターを習いたいのだがという申し出があった。広垣氏もこのような形での生徒さんが増えていくことを日頃から考えているようだ。早速紹介をさせていただくことになった。先日藤井氏のコンサート会場での雑談の中で生徒さんはフォークギターを使っているという話を耳にした。みんなで大声を出して歌うときの伴奏楽器としては効果的だが私たちが楽しんでいる楽器とは似て非なるものと言って良いだろう。
 前回のコンサートでは口コミで比較的若い年代の方々にも聴きに来ていただいた。過去のように若者がすべからくギターを抱えて街を闊歩するような時代ではないので、この方たちの来場は大歓迎だった。なおかつその中からギターを弾いてみたいという申し出だから嬉しさも倍増と言ったところだった。クラシックギターを演奏しようとする場合奏法に適した楽器を選択することも大切だ。私も主宰者として何とかサポートしたいと思っていたが、丁度一台眠っている楽器があるので良かったらご使用くださいと伝えたところ貸して欲しいと言われた。それほど高級なものではないが練習用としては十分に耐えると思う。
 このようなきっかけや出会いで志摩に少しでもクラシックギターに関心を持たれる方が増えることを願う。

2013年11月26日火曜日

まるで嵐

 昨晩は遅くまで小屋にいたが台風並みの雨と風が吹き荒れていた。今日確かめてみると芽キャベツや茎ブロッコリーに被害が出ていた。早速倒れたものを起こし杖をしておいた。
 嵐も去り道には枯れ枝が散乱していたが遠くの山並みに目をやれば紅葉が飛び込んでくる。私も隣の家の通路口にある楓の紅葉を毎年楽しみにしている。木下に行くと周囲の景色が赤く輝いて見えるのだから不思議だ。

隣家の紅葉
さて昨日アップできなかった画像を忘れないうちに貼り付けておこう。

チケットとチラシ


まごの店の弁当


続いて欲しい
中出阪蔵氏のギター展示会

2013年11月25日月曜日

Keigo Fjii in Matszaka city

 カメラの調子が悪くここしばらく写真はアップできないでいる。
 23日の土曜日に松阪市民ギター音楽祭という催し物があり午後から藤井敬吾氏のギターコンサートがあった。広垣氏からチケットを分けていただき期待に胸を弾ませながら朝から会場に向かった。午前の部を少し聴かせていただいたが市民のギター音楽に対する関心の深さを実感した。ギター製作家の中出阪蔵氏や松商の活動もあることそして関係者や指導者の熱意が市をあげての音楽祭につながっているのだろう。
 幕間にロビーに出ていたら相可高校の食物調理科の幕の内弁当が先着150個の限定で販売されていた。噂はかねがね聞いていたが運良く入手することが出来た。志を持った高校生たちの料理もさることながら指導者の村林先生の熱意によることも大きい。弁当は写真に撮ったのだが後日アップすることにした。肝心の味だが関西風の薄味で食材一つ一つのうま味を感じることが出来た。最近はこれでもかと言うほど濃い味付けで香辛料を必要以上に使った料理が多い中でこの弁当の塩梅は新鮮に感じた。
 さて、メインの藤井氏の演奏だが全くよどみがなく非の打ち所がないほど完成度の高いものだった。一言で言えば音楽が必然性をもって流れていると言うことだろうか。耳を澄ませて聴いていると一つ一つの音に神経が行き届き何一つ 唐突な感じのする音はなかった。これほどの研ぎ澄まされた緊張感のある演奏なのだが決して作為的なものは微塵にも感じられないのだ。音楽がこれほど心地よく流れていることにしばし呆然としていた。天上から体前進に音符の心地よいシャワーを浴びたという表現が的確かも知れない。
 最後に演奏された「羽衣伝説」は氏の代表曲であるが聴くたびにこの曲に託されたものを改めて感じる。現在、藤井氏の演奏によるCDは流通していないらしいが私はかつて氏から楽譜とCDを手ずから拝受したことがあり大切に持っている。残念ながらこの曲は難しすぎて私には演奏できない。
 約二時間強のコンサートであったが、曲と曲の間に軽妙なトークがあったが非常に魅力的で聴衆を引きつけて止まなかった。聴衆と一体化して大きな感動を共有した思いだった。松阪のギターファンの心を鷲づかみにしたことだろうと思った。

2013年11月21日木曜日

土作り

 N氏は除草後の草木や木の枝等を野焼きにして出来た後の灰を畑に戻している。私も負けじとこの前切り倒した槇の枝を時間を見て焼いている。風が強く吹くと飛び火が怖いのでもっぱら雨の日の前日と決めているが、今日は少し風があったが強行突破した。ドラム缶の炉なので上蓋をすれば飛散は防げる。今まで溜まっていた草木灰も18リットルの缶に一杯になったので早速エンドウ豆の根元に少しずつ施した。
 土作りを大事にする第一歩だ。刈り取った芋の蔓を土俵の俵のように丸めて土砂の流失をくい止めることも教えてもらったが少しずつ焼却することにした。

2013年11月18日月曜日

贅沢だけど

 夏場になれば実感するが猛暑の中の畑仕事は体温が上昇し熱中症寸前になることもある。ずいぶん昔の話だがあの頃は熱中症という言葉がなかった。また運動中でも水分をこまめに補給するという習慣もなかった。汗も体温を下げることが出来なくなるほど炎天下にいると頭がクラクラすることもあった。家に飛んで帰って事なきを得たが多分あれが熱中症だったのだろうと思っている。
 今では一時間外に出ていたら30分は陰で休むことにしているからそのリスクはかなり低くなっている。そもそも畑に小屋を作ったのは暑さ対策からだった。少し贅沢かも知れないがその小屋にエアコンを設置するのはかねてからの計画だった。夏場冷たい飲み物でクールダウンするのも良いかも知れないが冷えた部屋でゴロッと体を横たえると別世界にいるように感じるのではないだろうか。

贅沢だが暑さ対策
毎年、酷暑・残暑の厳しい時期に秋冬野菜の植え付け準備に取りかかっている。朝から夏野菜を収穫したり世話をしながら畑を耕し堆肥を鋤き込み畝を立てている。この畝立てが体温を上げ水分を奪い取る。耕耘機でも畝立ては出来るが最後の仕上げはどうしても鍬を使うことになる。先日Nさんに伺った話であるが、培土板は土を横によけるだけだから畝は鍬でやった方が良いと言うことだった。自分は人から聞いたことはなかったが手作業で行ってきたことは間違ってはいなかった。

2013年11月17日日曜日

槇の木の伐採

 
  先日Nさんが槇の木を切ってあげようかと言ってくれた。その数日後チェーンソーを持って「切ろうや!」と、突然やってきてくれた。毎年一㍍ほど伸びるので電線に引っかかりその都度電力会社の方が先端を切り続けてくれていた。しかし枝は伸び放題で根本も轍などの原因だろうか部分的に枯れかかっていた。ここ数年ずうっと苦になっていた。さりとてこの老木を一人で切るには荷が重すぎる。チェーンソーを持っていないのでノコギリで切ろうと思っていたが直径30㎝以上あるような幹は切ろうという決断が下しにくい。渡りに船で早速お願いすることになった。山側に倒れるようにワイヤーロープをかけて伐採にとりかかった。

before
 
流石は機会だ、あっという間に切られてしまった。運びやすいように幹も40㎝ほどに細かく切ってもらい枝も焼却炉で燃やしやすいような長さにチェーンソーの刃を入れてもらった。

after
ちょうど作業が始まった頃Oさんが通りかかりそのまま車を止めて手伝いを始めてくれた。NさんにしてもOさんにしても全て好意でてをさしのべてくれている。私よりもはるかに年長者であるがこのように親しくしていただけるのは嬉しいかぎりである。作業は一時間程度で終わったがその倍以上の時間雑談や情報交換の話に花が咲いた。
 最近私が小屋を建てたことが親しい友人の中で広まりつつある。夕方I君と高校時代の友人K君が前触れもなくやってきた。寂しい町はずれにある菜園だが人がやってくると言うことは、これもまた嬉しいことである。

2013年11月13日水曜日

妻籠宿

 まだ観光地化されていなかった昔にこの地を訪れたことがあった。久しぶりに中仙道の家並みを見たいと以前から思っていたがなかなか時間がとれずにいた。時期的にも紅葉など少しの期待を持ちつつ訪れることが出来た。

家並み
保存会でいろいろと手が加えられていたのだろう以前より見た目は綺麗になっていた。かなり時間の経過があったのでかつての趣は記憶から飛んでおり変化に気が付かなかったが、これほどお店はなかったように思う。もっと素朴さがあったと記憶しているがそれが良くなった事かどうかは何とも言い難い。
手入れが行き届いていた
平日にもかかわらず観光客で思ったよりも賑わっていた。家の前の溝を流れる水の音は旧い旅篭町の雰囲気を一層醸し出すものだ。陽光が降り注ぐ志摩から来てみるとこの風情はたまらない。納得の小旅行だった。
 どうでもいいことだが立ち寄った店で出てきたクリを眺めながらどうしても食指が働かなかった。
最近もフランス産のクリだと言いつつ隣国のクリを使っていたそうだが、私自分の畑にもクリの木があり色や形は良く理解しているつもりなのだがこのクリはどう見ても自分の知識の中にあるクリとは違うのだ。形は見てみると柴栗(志摩では山に自生する実の小さなもの)に似てはいるのだが、それにしても少し大きいような気がする。結局食べずにポケットの中に入れて帰ってきた。このところ各地で食品の偽装のことが騒がれているが老舗の椿山荘でもそのような事実があったようだ。二十年ほど前に行っているので驚いてしまった。
 人を信用出来ないのは寂しいが長く続いたデフレ経済のもとで利潤を出すのは難しかったのかもしれない。人間の味覚はそれほど騙されやすいものなのだろうか?私、自分の畑で採ったばかりの野菜の味は分別が付くと自負しているが、地産地消で自分の舌に磨きをかけたい。確証はないが例えば大根を食べたとき店で売られているものと自分が栽培したものでは違いがあるように思う。野菜のうま味であるグルタミン酸の味以外にも風味などプラスアルファがあるように思っている。


2013年11月9日土曜日

コンサートは盛会

昨日は少し弱気になっていたが今日のコンサートは盛会だった。いつものように1stステージは小林さんに御登壇いただきアルハンブラの思い出等を弾いていただいた。クレシェンドの後の微妙なディミネンドは彼女の美的センスの現れだと感じた。

小林さんのソロ
弱気のせいでプログラムも35部しか印刷していなかったが全てなくなってしまった。想定していた以上の参会者で会場は熱気に包まれた。
2ndステージは吉川さんにお願いした。いつも斬新な曲を用意していただいているが今回はゴンチチとサティの曲を聴かせてもらった。お嬢さんもご一緒に来られ会場づくりなどを手伝っていただいた。(ありがとうね。ペコリ!)

吉川さんのソロ
3rdステージと休憩を挟んだ4thステージはおなじみの広垣さんだ。日本の歌曲を演奏されその後はシチリアーナとフーガ(バッハ)ロッシーニアーナ第1番(ジュリアーニ)を演奏されたが前者でさえ難曲であるのに息つく暇もなく後者の演奏に入られた。私、志摩の会でロッシーニアーナのような曲は演奏されることはないと思っていたが正直感動した。ジュリアー二のスケールの大きさもさることながらオーケストラを彷彿させるような広垣氏の演奏は素晴らしいの一語に尽きた感があった。何人かの大作曲家がギターを小さなオーケストラにたとえているが、その言葉を具現化したような佳演であったように思った。大きなスケールの作品をさらに大きく演奏するテクニックには驚きを感じた。

スケールの大きな広垣氏の演奏
最後は楽しくラテン音楽の二重奏だった。

最後はノリノリのデュオ
今回は会が小さくなっていくことを危惧しつつアリーナに向かったが、誘い合ってきてくれた方や以前会員だった方やギターに興味を抱いてくださった新規の方々に支えられたコンサートだった。もちろん毎回来ていただき会場設営にご尽力いただいた方々のおかげだったことは言うまでもない。
 半年ぶりの再会になるが最後に来年の春の開催をお約束した。



2013年11月8日金曜日

明日の準備

 明日は志摩ギターの会第14回定例コンサートの日だ。会場の確保、案内状の作成と発送は既に済ませていたが当日の受付名簿と会場で配布するチラシが未だ出来上がっていなかった。原稿は作成してあったので手直しをしてプリントアウトした。
 幸い雨は降りそうにないので足下の心配はないが既会員の方から何件か欠席の通知を頂いている。春のコンサートも予定していた定数ぎりぎりだったので今回新規で何人か来ていただかないと会場が寂しくなる。いつも演奏してくださる方々には必要経費を差し引いた残りを交通費と弦代(消耗品費)として受け取ってもらっているが、さらに心苦しい運営になるかもしれない。
 クラシックギターのハードルが少し高いのかもしれないが魅力あるコンサートづくりについてこの時期になるといつも悩んでしまう。

2013年11月4日月曜日

お気遣いに感謝

 小屋が完成してからひと月以上経過しているが、地下になる芋類の保管庫を蓋してある板が湿気で膨張してしまっていた。T君にSOSの電話をしたら翌日来てくれた。重いカンナ盤をトラックに積んで駆けつけてくれた。小一時間の作業でスムーズに板が収まった。セメントに消石灰を混ぜて打ってあるがどうしても地下から来る湿気は抜けず結露している箇所もある。芋類の保管には湿度も重要だと思うが結露するほどになるのは具合が悪い。今まで隙間なく蓋されていた結果だと思うがこれで適当に水分は蒸発していってくれるだろう。
 このメンテナンスの時、T君はシーリングライトのアダプター、工事中に折ってしまった農業用支柱さらに屋根裏倉庫の入り口を開けるための道具をプレゼントしてくれた。

芋櫃換気中&T君からのプレゼント
細かい気遣いに頭が下がる。

 さて、世の中の森羅万象、中には目にしたくないものもある。昨日のことであったが子猫がカラスに攻撃され息絶えていた。子猫は車に跳ねられたりはしていない。目にしたくなかったのは未だ息絶えて間もない亡骸をカラスが食べていたことなのだ。どの肉食動物も獲物の内蔵から食べ始めるが、このカラスも子猫の体の柔らかい部分に汚らわしい嘴を食い込ませていた。
 子猫はこの世に生を受けてから2~3ヶ月といったところだろうか。一つ一つの仕草も愛らしく家族に可愛がられていたものだろうと思う。鳥類の中では知能も高く最も進化した部類に属すと思うが畑の作物に害を及ぼしたりゴミ袋を食べあさったり憎さが先に立つ存在だ。
 たかが子猫とはいえこれからまだ長い寿命があったはず。こんな光景は本当に目にしたくないものだ。そういえば人間の世界でも生後間もない赤ちゃんの命を奪ったり育児を放棄してしまうニュースを耳にするが何かしら怒りを通り越したものを感じてしまう。親しか頼ることの出来ない赤ちゃんを自らの手で殺めるような行為は人間性以前の問題だと思う。子のためならば自分の命さえ投げ出すという親が子を思うごく自然な情動というものが無いのだろうか。いろんな事情があったことを加味したとしても我々と同じ人間であって欲しくない。
 世の中のこと、何でもよく見聞きすることは必要だと思うが、目にしたくないものもあるのは確かだと思う。
 

2013年11月1日金曜日

いい人ばかり

 今日は誘引ネットを片づけたりサツマイモ(鳴戸金時)を収穫したり野積みにしてあった支柱の整理をしたり細々とした仕事をしていた。時間の制約を受けるものは何一つない。昼食を取り奥の部屋でゴロッとくつろいでいたらN氏が通りかかった。軽トラを止められたので私も表に出て挨拶をしていたら元気のない枯れかかった槇の木を切ってあげようかと申し出てくれた。

槇の木
この木は昔母と植えたものだがいつも根元を車に踏み固められているので全く元気がない。そればかりか枝が枯れかかっていていつ朽ち果てるかわからないようになってきている。今まで剪定もしてこなかったので電線の高さまで伸びきっている。毎年電気の保安工事をしてくれる頃先の枝は中電が切ってくれているのだが、私としてはそろそろ切ってしまいたいと思った矢先だった。お言葉に甘えたいのだが即答するのも何かしら図々しいと思い「ありがとうございます。」とお返事だけはした。
 人が困っていることを察してこのように言ってくださる方がいるのは本当に有り難いことだと思う。午前中は最近言葉を交わすようになった方が軽トラから大きく手を振って行かれた。近所に民家はあるが畑の場所は私の住んでいる町でも人通りの少ないところである。人と人の関わりは人口の密度には比例しない。むしろ人と人が接触する機会の乏しい環境に置かれた方が人と人は繋がりを強くするようにさえ思えた。たかが野菜作りだが、その野菜を通して互いに関心を持とうとする人との繋がりを感じた次第。
 さて今日から11月に入ったが少しずつ気温も下がってきた。ふと目をやると紫色の可憐な花の美しさに驚いた。

ラッキョウの花
春の収穫後に挿しておいたラッキョウが分けつを繰り返し花を咲かせていた。花壇に植えられている花よりも美しいと思ってシャッターを切った。