2015年12月16日水曜日

第18回コンサート終わる

 今回のコンサートは会場がなかなか確保できなくて苦慮しました。何とか12/12を取ったのですが当日まで寒さが気になっていました。幸いなことに例年になく暖冬で寒さのことは気にせずに済みました。
何と言っても目玉はリコーダーとギターのデュオでした。春のコンサートではリコーダーの奏者井村さんが突然来ることが出来なくなってしまったいきさつがあります。今回はヘンデルのソナタイ短調、キュフナーのフルートとギターのデュオ(セレナーデ)をメインに演奏してくれました。楽器のバランスを申せばリコーダーとの組み合わせは最高だと言えましょう。ヘンデルのソナタは井村さんも大変お好きな曲であたかも自分の家の庭を歩いているような慣れた演奏でした。一方ギターの広垣氏はチェンバロのパートをたった6弦しかない楽器で見事に演奏されていました。単なる伴奏ではなくリコーダーと対等に渡り合っていたと表現した方が良いのかも知れません。高度な演奏技術をお持ちなので聴いていて安心感のあるものでした。ギターも今回は三浦氏の作られたものを使われていました。氏自身は普段使用している松村氏の楽器が演奏に合っているとのことでしたがギターの会で使用している会場のコンディションを考えると前者の方が効果的だと私は思っています。
 キュフナーのセレナーデは学生の頃より馴染みのあるもので私も広垣氏とギター同士でデュオを楽しませていただいたこともあります。メヌエットのテンポが私の頭の中にあるものとは少し違っていましたがとても楽しい演奏でした。いつも開催に当たってはご尽力いただいているT氏、H女史には深謝いたします。また津市からいつも11弦ギターを携えて来られているDr.I氏、地元の愛好家K氏には感謝、感謝です。
 全てのプログラムが終了したのが会場借用時間ぎりぎりの9時20分でした。会員の皆さんの感想はまだ伺っていませんが恐らく大満足ではなかっただろうかと自負しています。リコーダーとギターの組み合わせはしばらく本会のプログラムから外せないと思いました。
 

2015年11月5日木曜日

演奏者K氏に会う

 私未だブログにはアップしていないが現在あるプロジェクトを進めている。その途中市役所に出向く必要があったので先日足を運んだ。
 話はこのプロジェクトとは関係のないことなのだが久しぶりにギターの会に会員として時には演奏者として参加し続けてくれているK氏に偶然出会った。氏は同じ町内に住んでいるが私が主宰している「志摩ギターの会」がなければ親しく話すこともなかった方だ。会のことについてはいろいろと気にかけてくださっていて今回もアストゥリアス等の演奏を申し出てくださった。最近野辺氏が70年代に制作された楽器を入手され音色の素晴らしさに驚かれたそうだ。楽器もよく枯れてきていているうえに当時の材質の良さも相まって状態はいいのだろうと拝察した。演奏会で披露されるかどうかは確認が取れなかったが氏の申し出を有り難く承った。

2015年10月31日土曜日

何年ぶりだろう

若い頃に仲間達と姫路城を訪れたことがあった。
今年大改装があり白壁や漆喰が塗り替えられ目にも鮮やかな白鷺城が甦った。若かったあの頃には何の努力もなくスイスイと天守閣まで上がっていったが流石に加齢のせいか急な階段には膝が悲鳴をあげてしまった。城周辺のお店や天守閣から見下ろした姫路の様子は変わってしまったが城そのものは以前訪れた頃と変わりはなかった。友とはしゃぎ廻っていた頃を懐かしく感じた。

2015年10月12日月曜日

会場の確保

 ギターの会秋のコンサート会場の確保と予約が完了した。今回は阿児アリーナの会場がなかなか確保しづらかったが12月12日(土)19:00~於:阿児アリーナミィーティングルームということでホッとした。前回リコーダー奏者の都合が急につかなくなり急遽広垣氏には演奏時間の無理をお願いして何とか乗り切ったいきさつがあった。今回はリコーダーとギターのデュオが楽しめそうだ。
伊勢周辺ではこのデュオが既に何回か行われているようだが志摩では初めての演奏会となる。私見ではあるが広垣氏のコンサートの幅が広くなっていくものと確信している。

2015年9月23日水曜日

うまく行かない日

 私、ジンクスなどは全く気に留めないタイプの人間だが、何を企ててもうまく行かない日というものがあるような気がしてならない。今日は正にその日だった。
 朝から買い物を頼まれて出かけたのだが予定していたものが店頭には無かった。別の店に廻るほど買い物には積極的ではないのでそのまま帰宅した。さらに先日私の住んでいる区で不幸事があった。今年は区長という役職に就いているので香典を持って葬儀に行ったのだがこのお供えは自治会本部から出金されることになっている。立て替えという形で参列し今日は立て替えたお金を本部に頂きに行ったのだが祭日と言うことで誰もいなかった。無駄足だった。そして三つ目・・・これが一番焦った案件だった。そろそろ「志摩ギターを楽しむ会」のコンサート開催日が気になっていたので会場の確保に出向いた。しかし提案した4コマの日が全て使えないことが判明した。秋のコンサートは何としても暖房を入れなくても良い時期に開催したかったのだ。それはギターの醸し出す繊細なPPの音色を暖房の送風口から出される雑音で遮られたくないからなのである。
 今日はこれ以上のことはすまいと思ったところである。
 今日のことはそれまでとして、今年は菜園もいくつか失敗もしてきている。山芋(つくね芋)が何故か壊滅状態なのだ。いままでネットを張り丁寧に育ててきたが手を抜いたことと植える場所の日当たりが良くなかったのだろうと思う。差し上げる皆さんには好評な作物だっただけに何と言って言い訳をしようかと考えている。小生姜も良くなかった。ゴーヤのカーテンで日よけをしたり良いと思われることは全て手を尽くしたがこの時期になって葉が黄色く枯れ始めてきた。大生姜は好調なので救われた。ウリ、西瓜そして無花果も良くなかった。春先はよく雨が降ったし梅雨明けは晴天が続き何度も300㍑のタンクで水を運んでいる。盆が過ぎた頃から台風の影響もあったりして日照時間が圧倒的に少なくその上八月下旬から秋雨がずうっと続いた。作物にとっては試練の連続だったのではないかと思う。
 年間を通して見れば不都合なことがいくつも重なっている。そんな中、気を取り直して今、秋冬野菜の植え付けや種蒔きを終えたところである。

2015年9月11日金曜日

さよなら友よ

 輸血が原因でC型肝炎を併発し長らく病と闘ってきた友の訃報が突然入ってきた。父母の代から親しくお付き合いさせていただいていたし、私も高校が一緒だったため互いの家を行き来していた間柄だった。
 進路はそれぞれ別だったが同じ志摩で暮らすようになった。互いに家庭を持ち仕事や暮らしぶりに気を配り合う仲だった。
 この秋には画期的な飲み薬が出ると言うことで快癒を待ち望んでいた矢先の出来事だった。お中元の御礼の電話をした頃には彼の肝臓が長年の疲労によってかなり悪い状態で所々に腫瘍も出来ていたと言うことだったが、私は回復を間違いないものと信じていた。まさか彼に限って病魔に屈することはないと信じていた矢先の出来事だった。
 この悲しみは筆舌に書き尽くすことが出来ない。自分の親を亡くしたときと同じような例えようのない寂しさと悲しさに包まれている。冥福を祈りたい。

2015年8月23日日曜日

友からの電話

 長らくブログを更新していなかったため私の安否が気にかかったのだろう。昨晩友から電話があった。もしかして大病を患っているのではないかという心配の電話だった。元気にやっているよと気遣いに対する御礼を述べたが農作業も例年通り格別に変わりがないためブログへのアップから遠ざかっていた。
 同じような作業内容の繰り返しではあるが少しずつではあるが進化は続けている。昨日はトマトの棚を撤去し秋・冬野菜の畝の準備をした。昨年は生姜の出来が良かったので今年も柳の下のドジョウを狙っているのだが相手はなかなか気むずかしい。里芋の葉陰になるように植え付けているのだが直射日光が当たるので葉生姜の一部は枯れてしまっている。とは言え秋雨が降るまでは鹹水や除草は欠かせない。
 残暑が厳しく30分働いては一時間休憩するような働きだが熱中症にはかかりたくないと思っている。

2015年2月11日水曜日

干物作り

鰺の干物(これは保存用)
先週の雨上がりのあと三重外湾漁港の移動販売車で数種類の魚を買い求めた。町の魚やさんで買い求めるよりもはるかに安価かつ新鮮である。大衆魚が主流なのだが時々市場にはなかなか流通しないような希少種の魚を買い求めることが出来る。それも魅力で時々買いに行っている。冷凍庫にストックしてあったアジの干物がなくなったので今回は生の小アジを3㎏ほど買った。以前は開いて塩干しや味醂干しにしていたが最近は丸干しが主流だ。気温も低いので内臓が腐敗することもなく塩分が低くても干物にすることが出来る。風の強い晴天が二日も続けば手製の干物が完成する。干す時間や塩分が自分の好みに調整できるのが有り難いばかりかかなりリーズナブルなコストで美味い干物ができる。食べきれないものはお裾分けにしたり冷凍庫にストックすることになる。仕上がりであるが、市販のものとは比較できないような艶というか輝きがある。塩をまぶし魚の目が浸透圧で白くなる頃合いを(一時間強)見計らって余分な塩を洗い流し乾し網に並べるだけだが新鮮な材料でお日様と風の力を借りて作る干物は美味い物である。この鰺について気がかりな報道があった。鰺の漁獲高が急に減ってきているらしい。小鰺を養殖魚の餌にすることや海水温の変化或いは自然のサイクルによる等いろんな説があるようだが鰯、鰺、鯖、サンマのようにいつ買っても食べ慣れていて安心感のある魚の資源が減ってくると言うことは気になる。


2015年2月8日日曜日

日展を鑑賞

日展東海展の会場
友人の彫刻が日展に入選しているので仲間達と見に行って来た。絵画は見る機会も多く知人にも絵描きがいるので何かと蘊蓄は聞いており耳だけは肥えているのだが彫刻となるとその見方は全くの素人である。それにしてもY君のここ3年連続の入選は偉業であり私たち同級生としては誇りでもある。氏は自身のHPでも志摩の海女・彫刻・民俗学について情報を発信しており民俗については自分の足で逐一こまめに取材され読む物を深く納得させる内容だ。 彫塑のテーマは「志摩の海女」であるがそもそもこれを選んだのは氏の活動や関心事と符合し我々観るものを納得させる物である。
 彫塑の会場には若々しいモデルを使った作品が多いが彼の作品は厳しい海女漁が垣間見られるくらい労働が感じられる現役の年老いた海女が見て取れる。深い海の底で漁をするには美形のモデルでは体力的に役にはたたない。寒さから身を守るような分厚い皮下脂肪が腰の周りにたっぷりと付いた肉体の様に何とも言えないような生活感や存在感を感じる。老いて張りのない垂れ下がった乳房は隣にある若いモデルと比べれば見劣りするかも知れないが海女や畑仕事をしながら何人かの子どもたちに乳を与えてきた人そのものの生き様やたくましく生きてきた女性の美しささえ感じられるのだ。

Y君の作品
われわれ仲間達にとっても彼の入選は励みになる。制作を続けられ来年も再来年も連れだって展覧会に来ることを約して会場を後にした。

2015年2月3日火曜日

へぎ餅を頂く

へぎ餅
私の町では古くから大寒の時期に餅をつく習慣がある。雑菌のはびこるのが最も少ないこの時期に保存食としての餅をつくのは理にかなっている。今のようにお店に行けば好きなお菓子が手に入らなかった時代に一年中のおやつや軽食として作ったのはよくわかる。多くはあられにしていたが伸した餅をある程度切りやすくなってから薄く剥いで乾燥させるものもあった。その餅も白い物から色素で赤や緑に着色した物、紫蘇や青のりや醤油で味付けした物といろいろと味のバリエーションを楽しんできた。勿論最近ではこのような手間のかかる風習もめっきり少なくなり農家の人が続けている程度なのだ。へぎ餅にしたり霰に加工して一年間の保存食になる。店に行けば訳のわからないような調味料で味が付けられたアラレのお菓子が売られているが私は素朴な農家の霰が好きだ。餅米本来の甘さや風味が感じられほのかな塩味と餅の味が口中で絶妙に混じり合った味わいは捨てがたい。良く似たものがスーパーでも売られているがどうも余計な物が入っていて志摩の農家さんが作った物とは似て非なるものなのだ。安心安全ということ以上に味覚の上でも勝っている。
このへぎ餅はいつものN氏がわざわざ自宅まで持ってきてくれた物なのだ。一枚一枚味わっていただくことにする。(ペコリ。)

2015年2月2日月曜日

八朔の収穫

今年もとれた
毎年このころに家の離れ横にある八朔を収穫している。この木は母が植えたものだがかなりの老木になってきている。隣の家に伸びた枝がかかるので剪定も大変になってきている。昨日は収穫後に剪定をしていたら隣の小母さんに礼まで言われてしまった。計画的な剪定はしていないが毎年一個のコンテナに入れきらないほどの実を付けてくれている。たくさん採れて有り難みも少なくなってきているのだがスーパーで値段を見ると驚いてしまう。自分で栽培しているとタダのように思ってしまうがお金を払ってわざわざ買おうと思わないのは贅沢というものだろうか。
一月ほどエージングをして食べると酸味も和らぎ甘くなるのだが以外とフレッシュなものも美味いと思っている。採れたてのものを口中に含み奥歯で噛みしめると何とも形容しがたいジューシーさと風味が楽しめる。私なりに考えたのだが口の中で酸素と触れさせないで一気に噛みつぶし
甘いジュースを喉に流し込むことだと思っている。

2015年1月30日金曜日

再度

サザンカの花をもらった
今日は朝から野菜を採りに畑にきた。まさか連日の訪問を受けることになるとは思っていなかった。空気の入れ換えをすべくドアを網戸に替えていた。外からは丸見えだ。「おじさん、入っても良い?」と言う声が聞こえたときは既に遅かった。昨日に続き再度の訪問を受けることになった。まだ小学校の低学年と言うこともあって家のことを自分からよく喋ってくる。私は何一つ聞いていないのだ。父母がよく喧嘩をすることなどペラペラと話しかけてくる。この子の父親は子ども時代を知っているから思わずクスッと笑ってしまった。でも優しいではないか、昨日のお菓子の御礼にサザンカの花をもいで持ってきてくれたのだ。考えてみればこの子たちの家の近所には小さな子どもが居ない。学校が休みになれば遊び相手がいないのだ。お父さんの仕事は不規則だしお母さんはかなり遠くの職場まで通っているらしい。豊かな自然に囲まれて育つのは素敵なことだが同年代の友達が近所に居ないのは可哀想だ。昔は近所に民家も数軒有りどの家にも元気な子どもたちの声が飛び交っていたように記憶している。
この分なら明日も訪問を受けそうだが私の小屋はそもそもこのような小さな子どもの来訪を想定していなかった。床をはじめ至る所に鎌や怪我をしそうな農具が雑然と置かれている。片付けもしなければならないが入室の制限も考えなければならない。

2015年1月28日水曜日

小さな訪問者

先日小屋の中でPC相手に調べごとをしていたらドアを叩く音がした。開けてみたら菜園の近所に住んでいる子どもが入ってきた。この子は夏の盆踊りの時に知り合いになった経緯があったがまさか小屋にやってくるとは思っていなかった。一歳になる弟を連れてきたが畑の小屋は幼児が遊び回っても良いようには出来ていない。あちこちに農具が雑然と置かれているし燃油や子どもが誤って口に入れたら大変なことになるようなものもある。
いつも作物や害虫を相手にしているので小さい子どもがやってくるのは大歓迎だが目が離せない。戸棚にあったお菓子を出してプチおもてなしをした。話を聞いてみるとインフルエンザで学校は休みになっているらしい。小一時間程度ならPCの作業をしながら相手をしても良いかと思っていたが甘かった。思いの外彼らは好奇心が強く私の集中力が続かなくなってしまった。一歳の子どもはフローリングに置いてある懐中電灯やタバコそしてライター等の小物をいちいち拾って私に渡そうとしてくるのだ。姉の子は流石に小学生、細かなことまで質問攻め。最近の子どもたちは物怖じせずに大人に関わろうとしてくる。私も暇とは言え農作業もしなければならず今日の所はこれから買い物に行かねばならないと言ってお引き取り願った。

訪問者達
それにしても気にかかるのは毎年ニュースの紙面に載る不審者情報だ。物怖じせずに誰にでも話しかけたりするコミュニケーションのワザは私の幼年時代とは比較にならないほどだ。それは良いことなのかも知れないが危機管理のスキルはこのような田舎であっても身につけて置いた方が良いと思うのだが・・・。

2015年1月23日金曜日

懸賞に当たる

大寒に入り一年中で一番寒いはずだが体感はそれほどでもない。この時期は農作業も殆ど無く日々食卓に載せる野菜を収穫したり未だ飛び去らないヒヨドリ対策をする程度である。

懸賞のレタス包丁
私の野菜作りは今まで母から伝えられたことや近隣の農家さんから教えて頂いたことそして雑誌の情報をたよりに営んでいる。書物に記されたことは必ずしもこのあたりの地域性に合っているとは限らないので参考程度としているがなるほどと頷いてしまう情報も多い。「家の光」社から出されている「やさい畑」という雑誌はこのところ欠かさず購入しているが先日初めて紙面に記載されていた懸賞に応募してみた。動機は単純で、たまたま引き出しに切手があったからである。どうせ当たらないだろうがトライしてみようと言う気まぐれからである。夕方宅配便で品が届いたが自身応募したことも忘れていたので驚いた。封を切ってみるとレタス収穫用の包丁が送られてきた。本鍛造手打ちと記されていた。何故か名品を手にしたような気がする。普通の包丁としては使えないが収穫に特化したもののようだ。片刃の和包丁であるが刃の付け方が反対になっている。私が左利きであったら台所でも使えそうな形状なのである。レタス包丁と書かれているが白菜やキャベツ等汎用として使えそうだ。今まで安価なステンレスの物を使っていたが研いでもすぐに刃が丸くなってしまっていた。鋼を鍛えてあるようなので期待はしている。何よりも高い競争率にうち勝って当選を果たしたことが嬉しい。

2015年1月12日月曜日

お気の毒様

こすった跡
年末年始の慌ただしい時期に全く持ってお気の毒な話だが先日のこと菜園から帰り収穫物を籠に入れ玄関に向かおうとしていたとき下の道から鈍い音がしてきた。手がふさがっていたのでいったん家に入った。その音がどうも気にかかるので再度外に出てみたら隣の家の小母さんも見に出てきていた。時々あることなのだが道幅が狭くなった部分に土手がありそこに車のバンパーをぶつけた音だった。北の方から侵入してきたようなのだが細かい道路の状況を良く知っている人なら難なく通り抜けるのだがうっかりと脇見をしていると狭くなった部分にバンパー等をこすってしまうことがある。もともと荷車が通る程度の道だったものをかなり無理のある拡張工事の末に今の状態にしたものだ。私の家も建て替えたときに道から1㍍ほど退いて階段を付けたいきさつがある。私の家の前までは道幅もあるのだがその先は車一台がやっと通れる幅なのだ。このような事情も知らずに単に道があると言うことで減速もせずに一般の市道のつもりで侵入してくるのだから昔から暮らしている人にとってはいつも肝を冷やすことも少なくない。最近ではこの狭い道を国道への近道として利用する人もいる。距離的には短くなるが時間的には何のメリットもない。
 かつて私も目に余るようなことがあったので苦言を呈したことがあった。他県の車だったが狭い坂道を通り抜けるのが難しいと思ったのか目の前でUターンを始めたのだ。当然道幅の範囲でのターンは出来ないので、こともあろうか近所の畑の中に侵入して車の進路を変えたのだ。幸い作物は植わっていなかったがこのような無神経さには腹が立つというものだ。こんなこともあり今回激突したことについては気の毒だとは思うが心底同情をしようと言う気持ちは半減している。通り去る車の後ろ姿しか確認しなかったがメタルブルーの高級なドイツ車だったように思う。少なくともパンパーは大破していただろう。ちなみに私のこの道を通る速度は自転車以下と決めている。