2013年8月2日金曜日

人の死で思うこと

 昨日お通夜に行ったが、今日は葬儀であった。人の死を期に自分に重ね合わせいろいろと思うのは人の常。家族にお年寄りを抱えたものは将来自分の親が要介護の状況になったときのことを心配するのも理解はできる。かつては多くのお年寄りが自分の家で臨終を迎えたわけだが、今は殆ど病院か介護施設で人生を終える。それが良いのか悪いのかという問題ではない。私が耳にした言葉で納得がいかないのは「そろそろ家も婆さんを介護施設に連れて行こうと思っているの。」とか「弟が頼りにならないので姉二人で両親を施設に連れて行こう。」という相談をしていることだ。
 世話になった親に対してあまりにも情のない暴言としか私には考えられない。このような風潮が一般化していったのではたまったものではない。まるで厄介者を片づけるようで姥捨て山に連れて行くように思えてならない。口減らしに長男が母親を負ぶって山に捨てに行かざるを得なかった頃の話でも、この親子には深い肉親の情が感じ取られて思わず目頭が熱くなってきたものだ。
 今の時代、親子の絆のことや経済力のこと家族の形態の変化等いろいろな要因があると思う。豊かそうに見えても夫婦共稼ぎでないとなかなか暮らしが成り立っていかなかったり、目の前の贅沢を追求するという自らの欲望に駆られたり・・・。他人の幸せより自分の幸せに執着する人が多くなったのかもしれない。後者の事例は、同じ屋敷に住んでいても親の生活には関心を持たないと言う。
 冠婚葬祭を見ても、人が生まれ結婚し、子供が出来、やがて親との別れがくる。この人間として当たり前のことの一つ一つが家族や地域が暖かく見守ってきて、節目節目に生老病死を共有し、人の命の大切さや儚さを家族中で体感したものだ。命の尊さ、個人の尊厳というものはこういう機会にお年寄りから死をもって深く教えられたものだ。「婆さんを施設に・・・。」と言うような軽々しい暴言は私にとっては恥知らずとしか思えない。
 歳をとれば誰しも好々爺になるとは限らない。むしろ逆で頑固で執着心が強く体に様々な障害が出て下の世話も自分ではコントロールできなくなり、物忘れが激しくなり時には徘徊したり自分の息子の顔さえもわからなくなってしまう。でもそれは老人のせいではない。歳をとれば誰だって多かれ少なかれその道をたどることになる。でもそのお年寄りにどれだけ我々子供は溢れるような愛情を受け、育まれれてきたこどろうか。その深い愛情に応えることができない哀れな人がいるのかと言うことを時々感じてしまうのは私だけだろうか。
 私も親を送ったときは約半年間病院から職場に通っていたが、しんどいと思ったことは一度もなかった。退院の見込みは皆無だったが、親父に早く家に帰ろうと言い続けていた。
 これに類する話はどこにでも転がっていて私の知っている人だけではない。しかし、これで良いわけがない。この人たちの生き様は、その人の子や孫が一部始終見ているのだからそれだけの覚悟もあるのだろう。
 さて、私この三日間エアコンなしで生活していたのだが、やっと今日買い換えのものが到着した。このエアコン、騙し騙し使い続けて20年になるがよく持ったものだと感心している。布団に入っても室温が30℃くらいあって汗びっしょりになりタオルを横に置いて寝苦しい夜を耐えていた。家屋の気密性が高くなり外からの風が入らなくなったことも寝苦しさの原因だと思うが、自分がいかに我慢ができなくなってしまったのか思い知らされた。あまり快適な生活に慣れるのもいかがなものかと考えさせられる3日間であった。

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