|
日陰を作る木 |
菜園の西側には耕作放棄地がありいつの間にか山林の状態になっている。季節にもよるが午後二時三時になると木の陰が畑にかかってくる。私の町は将来的には消滅してしまうと言われるくらいお年寄りの人口が増えてきている。当然それまで耕作してきた土地も放棄せざるを得なくなってきているのだ。放棄された畑は翌年には背丈ほどの外来種の雑草に覆われ更にススキなどの植物に占拠されてしまう。そして10年も経てば笹や広葉樹が茂ってくる。やがて原野に還っていくのだがこれを自然の循環と悠長に眺めていて良い物だろうかという気もする。住人が利用している道にも枝は伸び大風が吹くたびに折れて道をふさいだりしている。そればかりかイノシシなどの野生生物の格好の住処にもなっている。志摩と言えば海を連想させるが里山あっての海だと思っている。行政あげて里海の創生をうたっているが人の手が入らなくなってしまった里山の方にもっと力を注いでもらいたい物だ。最近英虞湾で採れる青のりの色が黄緑になっていたり外海では磯焼けが懸念されているがもしかしたら山から運ばれる栄養塩類とも関連があるのかも知れない。
一定の面積あたり生産されるもので支えられる人の数には限りがある。過疎だ過疎だと騒いでいてもそれが反対のまだまだ過密状態である場合もある。人口を支えきれないからもっと生産効率のいい都市へと人が流れていったことも否定は出来ないと思う。真珠養殖だって英虞湾を埋め尽くすほど筏が浮かぶ過密状態になっていたことを忘れてはならない。結果水質の悪化を招きそれまで報告されていなかった悪性のプランクトンが発生し斃死率が格段に上がってしまった。他の漁業についても乱獲で漁獲量が激減したり藻場が荒れてしまったりしているのが現状だ。疲弊した海を休ませなければと思う。こんな状態で「稼げる海」を標榜すれば資源の回復を待たずに海は死んでしまう。人が利潤追求のため関われば関わるほど、稼げば稼ぐだけ限られた海の資源は枯渇するはずだ。一定の面積あたり生産或いは漁獲可能な産物の適量はあるはずだ。伊勢エビやアワビそして高級魚はもともとそんなに食べるものではなかっただろうか?鰯・あじ・鯖をもっと喜んで適量を食べるようにすべきだと常々思っている。こんな美味しい食材はないと思っているのだが・・・。
そんなわけで、もっと耕作地に優しい行政であって欲しいと思うこの頃だ。農地からは毎年野菜がたくさん採れしかも採りっぱなしではなく再生可能な生産手段なのだ。魚群が回遊してきたときに何が何でも採ってしまおうというような採集・狩猟ではないのだ。もちろん一部には計画的に資源を保護しながら可能な漁獲高を決めて漁をしている場合もあるだろうが、例えば志摩の海女さんたちの間にも潜水する時期や一日あたりの操業時間が厳格に守られている。しかし確実に年々採れるアワビなどの漁獲量は減ってきている。当然志摩の海が養える海女さん達の人数にも限りがあるのでこちらの人数も高齢化、後継者不足となり減少傾向にある。
木が野放図にのび放題になっていることから海のことに目が向いていったがもともと土地の生産性の低かった地域柄里海を再生してそこで稼げることを標榜することからもっと広く地域全体の構造を見て行かねばならないと考えるのは私だけではないと思う。