2012年10月11日木曜日

お通夜に行って来た

 今日は遠い親戚筋のお通夜に行って来た。この地では珍しい神式でのお見送りであった。お供えの不祝儀袋もいつでも取り出せるように引き出しにまとめてストックしてあるのだが神式のものは袋はあったが御玉串料と自分の名前を記したものは無かったので急いでパソコンで用意した。私の人生でもほんの数回の経験だったので会場でのマナーも再度確認した。遠い親戚になるのだが私の妹の嫁ぎ先のさらにその兄弟の奥様の関係と言うことなのでお通夜に出させていただき明日の葬儀は欠礼させていただくことにした。この奥様のご実家は以前食料品店を営んでいてこの町でも有名店だったがスーパーの出店で何年か前閉店したいきさつがある。閉店と言えば最近知り合いのストアもコンビニには勝ち目が無く先日店を閉じた。大型店やチェーン店の進出でこの町に古くからあった馴染みの店舗が沢山去っていった。大手の業者によって私の住んでいる小さな町の商圏も独占されていくようでは何か割り切れないものがある。商業地を集約化し大型化し薄利多売で攻勢をかけられるのだから零細な個人の商店は生き延びるのが難しい。
 以前「逢坂峠」(ほぼ今の伊勢道路)のことを記したブックレットを目に留めたことがあったが、古の頃には志摩の行商人がカツオをこの峠を越えて伊勢まで売りに行っていたそうだが、そのカツオの数はせいぜい10本以下だったとある。その儲けだけで生活がよく成り立っていったものだと驚くが昔はどの店も今と比較すると売り上げも微々たるものだったのではないかと思う。それでも暮らせていけたのだから余計に今の時代あくせく働かなければならないのかと考えてしまう。
 生活は確かに便利になって快適なのだが何をするにも全てお金がかかってしまう世の中になってしまった。この流れに逆らうのはなかなか難しいが何のために貴重な時間をお金のために浪費しているのだろうと自問してしまう。かつてリーマンショックが直撃した頃マネーゲームに対して「実」の無い物に対する批判が相次いだが、こんな時だからこそ自分の価値観を見失うことなく生きたいものだ。
 お通夜の道すがら私の町にも以前はこの通りのいたるところに小さいながらも対面販売のかけ声が聞こえる店があったことに思いを巡らせた。

 余談ながら、先日来腰痛に苦しんでいたが昨日菜園で苦になっていたナスの撤去や空豆・豌豆の畝の耕耘をしていたら痛みもかなり軽くなった。信じられないが事実である。
 余談その二になるが、久しぶりに小アジを買い込み今日は干物を作った。

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